仏教と科学 親鸞会を研究するまつもと

科学的視点から人生の目的を考察する

 仏教は死後の実在を明快に説ききる。
 しかし、仏智で説かれた深遠な真理は、科学のように観察、実験、計算、推理といった作業の積み重ねで到達できるような浅薄なものではない。だから、科学で仏説を説明しようとすることは、一階建ての家を二階、三階と増築して月へ届こうとするようなものである
。  だが、証明は無理でも、次のようなことはハッキリいえる。
「仏教は、現代科学にちっとも矛盾しないばかりか、これから科学が進みゆく究極のところを先取りした感があります」
 これは、ある生化学者が仏教を研究して驚嘆した言葉である。科学者のこのような発言は枚挙にいとまがないくらいだが、それは後述する。
 どんな人生観を持とうと、各人の勝手だが、科学の限界内のことは科学的な考え方をした方が利口である。非科学的な考え方は、必ず行き詰まるからだ。キリスト教文明然り、日本の皇国史観然り。
 このページの目的は、一般に、人生の目的を考えているとされる宗教、哲学、思想を現代科学のふるいにかけ、何が残るかを確かめることにある。
 だが、断わっておきたいのは、科学、科学と言っても、科学自体、完全なものではない。
 現代人の自慢のタネである科学も、大宇宙のほんのある一面を解明したにすぎない。科学で証明された真理よりもまだ証明されていない真理の方がどれだけ多いか科学者自身がよく知っている。

「科学はどこまでいっても暫定的なものである。何事に対しても、完全、かつ究極的な証明を与える事は、科学には不可能である」(エックルス 大脳生理学者・1968年ノーベル医学生理学賞受賞)

「科学がすべてであると思っている人は、科学者として未熟である」(湯川秀樹)

 だからといって、科学は無力ではない。科学は絶対的真理を示すものではないが、真偽の区別 ぐらいは示してくれる。例えて言えば、写真のようなもの。写真はあくまで実物ではないが実物に限り無く近い。犬の写 真は、犬そのものではないが、それを見ておれば、豚を犬と間違えることはない。
 同様に、科学もあくまで真理の近似ではあるが、真偽を見分けるモノサシの役目は十分、果 たしてくれるのである。
 ところが、多くの宗教は、科学の不完全さばかりを強調し、「人間の心や死後の問題は、科学の領域外。宗教でなければ分からない」と決めつけ、それぞれ勝手な妄想を教義とし大衆をだましている。
 確かに人間の生命、死後については、科学でも未知の部分が残されている。だが、かなりの部分が、もはや解明されていることを宗教家たちは知らない。その者たちは生命についても、科学の領域内で矛盾したことを平気で教えている。そんな教えを信じる者は現代人失格といってよかろう。

「究極の存在」をめぐり、哲学は二つに分裂した

 死んだらどうなる? 難問だが、常識的に考えて二通りしかない。すなわち、死んだ後は「ある」か「ない」か、二つのうちどちらかである。
 哲学的にいうと「ある」といえば観念論、「ない」と答えれば唯物論といえる。
 本来、観念論とか唯物論は世界が究極的には何からできているかを論ずるもので、直接的には死後を云々するものではない。しかし、理論的に死後について考えるには、ここからスタートするのが筋なのである。

「哲学の大切な問題は、心と物質世界(自然・社会)との関係である。この問題をどう解くかが哲学の最高の問題である。哲学は、根本的には、二つしかない。唯物論と観念論の二つである。人間に男と女しかなく、第三の人間がいないように、哲学にも根本的には第三のものはない。あるとすれば、第三のものではなく、二つのものの雑炊である。
 二つの哲学は、この問題の解き方が二つしかないところから生まれてくる。唯物論の立場をとるか、観念論の立場をとるか、ここで分かれたら最後、もう哲学はどこまでいっても一致しないばかりか、いけばいくほど相敵対する様相が鋭くなっていくだけである」(高橋庄治『人民の哲学』)

「すべての哲学、ことに近代哲学の大きな根本問題は、意識と存在との関係の問題である」(エンゲルス『フォイエルバッハ論』)

 精神か物質か  意識と物質存在との「関係の問題」。これが哲学の根本テーマである。「関係の問題とは、どちらかが根源的かと言い換えられる。つまり、心と物質は、どちらが先にあったか? どちらが、どちらを発生させたか? この見解の相違から水と油のような二つの哲学が生まれた。

「精神と物質と、どちらが根源的であるか、この問題にどう答えたかで、哲学者は二つの大きな陣営に分裂した。  物質に対して、精神が根源的と主張し、何らかの神や精神の不滅を認めた人々は、観念論の陣営を形成した。  反対に、物質を根源的であるとみた人々は、唯物論のいろんな学説に属している」(エンゲルス『フォイエルバッハ論』)

 エンゲルスの説明によれば、究極の存在を物質とみるか、心(精神)とみるかで、哲学は二つに分かれた。 「どっちでもいいじゃないか」と思われるかもしれないが、唯物論と観念論の対立は、単なる物質か、心かという問題では終わらない。それは、死後の存否、ひいては後で述べる自由意志の問題をはらんだ人生観の対立なのだ。

心はどこから生ずるか

 二十世紀前半の知的代表者といえるアンリ・ベルクソンは次のように言っている。
「もし、心が、頭脳の中で、頭脳によって作られるものならば、死後に心は存在しない。もし、心が頭脳から独立したものならば、死後も心は存在する。後者の場合は存在するという方が合理的で、存在しないというには特別 の証明を必要とする」
 つまり、死後の有無は、心がどこで、いかにして生じるか、によるのである。
 くどいようだが、ベルグソンの言う通り、心が脳細胞の単なる物理化学現象にすぎないならば(唯物論)、死後、脳の分解とともに心も消滅するはず。反対に、心が物質から独立したものならば(観念論)、脳の消滅に関係なく心は存在し続ける。すなわち死とは、心が脳から離れた状態と定義できよう。
 唯物論の陣営と、観念論の陣営は、心の存在をめぐって際限もなく論争を続けてきた。両方とも真実、は、ありえない。だとすれば、どちらが正しいのだろうか。

仏教は、哲学のニ大陣営を否定する

  仏教では唯物論を無の見、観念論を有の見と言い、どちらも外道の妄念と断定する。
 今から約1900年前、インドに龍樹菩薩が現れ、当時はびこっていた有無の邪見を徹底的に破られたのは有名である。『正信偈』の中で、 「龍樹大士出於世  悉能摧破有無見」 (龍樹大士世に出でて、悉く有無の見を摧破し) と、親鸞聖人も讃えておられるのだ。
 さて、これで問題の焦点はほぼ定まったと思う。もちろん龍樹菩薩に及ぶべくもないが、これから化学的知識と哲学的思考を軸として、現代の有無の見に立ち向かおう。
 唯物論と観念論が破られた時、有無の見を離れた仏教の死後観が必然的に立証されてくるのである。

 

唯物論への追求

 

リンク
浄土真宗親鸞会
『人生の目的』について特集しています

[★高収入が可能!WEBデザインのプロになってみない?! Click Here! 自宅で仕事がしたい人必見! Click Here!]
[ CGIレンタルサービス | 100MBの無料HPスペース | 検索エンジン登録代行サービス ]
[ 初心者でも安心なレンタルサーバー。50MBで250円から。CGI・SSI・PHPが使えます。 ]


FC2 キャッシング 出会い 無料アクセス解析